住友金属鉱山、旧四阪島製錬所の大煙突を解体

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住友金属鉱山は2月15日、瀬戸内海の四阪島(愛媛県今治市宮窪町)にある旧四阪島製錬所の大煙突(直径10.5メートル、高さ64.2メートル)が老朽化して倒壊のおそれがあるため、4月中旬から半年かけて解体すると発表した。

元禄4(1691)年に開かれた住友家の別子銅山は、明治に入り、機械設備の導入、索道、鉄道の敷設などによって出鉱量の拡大が図られ、これに対応する製錬能力を確保するため、別子山中にあった製錬所は新居浜の沿岸部に移設された。

1883年に惣開に洋式製錬所(新居浜製錬所)が建設され、翌年からの試験操業を経て1893年から本格的な生産が始まった。
別途、1888年に山根湿式製錬所が完成、亜硫酸ガスから硫酸を回収したが、排煙により周辺の農作物に被害が出はじめ、1895年に廃止した。

しかし、製錬所の移転で、亜硫酸ガスが周辺地域の農作物に被害を及ぼすという、予期せぬ事態が発生した。

当時は亜硫酸ガスの回収方法が確立されておらず、技術的に解決することは極めて困難だったため、時の住友総理事伊庭貞剛は、製錬所を無人島の四阪島へ移転するという決断を下した。

一般に「四阪島」と呼称されるが、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成される。

四阪島は新居浜から約20キロ離れた無人島で、ここに製錬所を移転すれば、亜硫酸ガスは瀬戸内海上で拡散され、煙害が発生することはないと考えた。
しかし、無人島に製錬所を作るには、港や道路、住宅をはじめとするインフラをいちから整備しなければならず、総建設費は、当時の別子銅山の2年分の純利益に相当する約170万円という、まさに社運を賭けた大事業であった。

製錬所造成時に家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。(1915年のピーク時の人口5500人)
1905年に製錬所を四阪島に移転、大煙突は1924年に完成した。

     
 

     

 

しかし、瀬戸内海上で拡散されると考えた亜硫酸ガスが風に乗って、そのまま四国本土にまで流れ、予想に反して煙害を愛媛県の東予地方全体にまで拡大させることとなり、農民達は、煙害の根絶と損害賠償を求めて激しい運動を繰り広げた。

1910年、住友は被害者農民との間で、損害賠償と亜硫酸ガス排出抑制のための操業制限に関する契約を結ぶ一方で、煙害克服に向けたさまざまな技術改良に着手した。

まず、原料中の硫黄分を減少させるため、1913年に惣開に住友肥料製造所(後に住友化学となる)を開設し、硫化鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、さらにこれから過燐酸石灰を製造することとした。また、煙害の除去、軽減のため、いくつもの試験研究を実施した。

これらの対策により、四阪製錬所から排出される硫黄量は、192年には1919年の半分にまで減少した。

その後もいろいろの対策を行い、1939年の中和工場の完成で煙害の被害は根絶することができ、大煙突の役割を終えた。
四阪島に製錬所が移転してから34年後のことである。

 (住友金属鉱山 「環境への取り組みの歴史」から)

 

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別子銅山は1973年に閉山、283年に亘る歴史に幕を閉じた。

別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、四坂島精錬所の重要性は低下、順次合理化が図られ、1976年12月に溶鉱炉が停止した。

現在、四坂島では(株)四阪製錬所が、製錬技術を活かし、製鋼煙灰に含まれる亜鉛を回収するリサイクル事業を行っている。




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