ウクライナ問題の背景

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麻生副総理の3月25日の会見での発言が問題となった。

キエフ公国というのはロシアのもとですよ。ロシアというのはここから始まったんだから。そのキエフ公国がロシアのもとなんだから、キエフがバルカンだのクリミア半島と別れて、キエフだけヨーロッパに行っちゃうみたいな話は、ロシアとしてはなかなか、日本で言えば宮崎県が独立して高天原がいなくなっちゃうみたいな話なんじゃないの。知らないけど。よくあの辺のことはわからないけど。そんな簡単な話ではないんだという話ですし。

これについてはHenry Kissinger も 3月6日付けのWashington Post でこう述べている。

ウクライナが生き残り、繁栄するためには、ウクライナはロシア側、西欧側のどちらかに立って相手側に立ち向かうべきでなく、双方の間の架け橋となるべきだ。

西側は、ロシアにとってウクライナは単なる外国の一つではあり得ないことを理解しなければならない。ロシアの歴史はKievan-Rus と呼ばれるところに始まった。ロシア正教はそこから広がっていった。ウクライナは数世紀にわたってロシアの一部だったし、その以前にもロシアとウクライナの歴史は絡み合っていた。1709年の Poltavaの戦いに始まるロシアの自由にとってもっとも重要ないくつかの戦いはウクライナの地で戦われた。黒海艦隊は長期のリース契約に基づきクリミアのSevastopolに基地を置いている。Aleksandr Solzhenitsyn やJoseph Brodskyのような反体制派ですら、ウクライナはロシアの歴史、というよりロシアそのものの不可欠な一部だと主張した。


ウクライナ問題はもっと複雑である。

ウクライナのデシツァ外相は4月1日、「法制上、現時点でNATO加盟を申請することはできない」とする一方、国会が法制を変更すれば「他の選択肢も議論になる」と述べ、将来についてはNATO参加に含みを残した。

NATOは、ソビエト連邦との冷戦が激しさを増す中で、英仏が主体となり、1949年4月4日に締結された北大西洋条約により誕生した。
結成当初は、ソ連邦中心とする共産圏に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であった。

1990年10月にドイツが再統一され、NATOは旧東独に進出した。

1991年12月にソ連が崩壊した。その後、旧ソ連諸国が相次いでNATOに加盟した。

1999年 チェコ、ハンガリー、ポーランド
2004年 エストニア、ラトビア 、リトアニア、ブルガリア、ルーマニア、スロバキア、スロベニア
2009年 アルバニア、クロアチア  

NATOの東進には複雑な背景がある。

Oliver StoneとPeter Kuznickの共著の"The Untold History of the United States"によると、ドイツ再統一にあたり、以下のような交渉があった。

1990年2月、Bush大統領とBaker国務長官、Helrmut Kohl西独首相は、Gorbachev に東独駐在の38万人のソ連軍を撤退させ、1945年のドイツ敗戦に伴う駐留権を放棄させるのに苦慮した。

Bakerは2月9日にGorbachevと会見し、「統一ドイツがNATOから外れるのと、統一ドイツがNATOに残るが、NATOは現状から1インチたりとも東に入らないのと、どちらを好むか?」と質問した。BakerはGorbachevの「NATOの地域の拡大は受け入れられない」との答えを記録している。

Helmut Kohl は翌日Gorbachev と会い、「当然、NATOは領域を東独に拡大しない」と述べた。

2月10日にはドイツのGenscher外相がEduard Shevarnadze外相に同じことを伝え、「統一ドイツのNATO加盟は複雑な問題を生むが、一つだけ確実なことは、NATOは東に拡大しないということだ」と述べた。
これがドイツだけではなく、全ての東欧諸国に適用されることを理解させるため、Genscherは「NATOが拡大しないことに関しては、全般に適用される」と付け加えた。

Kohlの保証を受け、Gorbachevはドイツ再統一を認めた。しかし、法的文書のサインはなく、言葉だけであった。

Gorbachev は同年9月、どうしても必要であったドイツからの資金援助と見返りに、東独へのNATOの進出に同意し、問題を複雑化した。

Gorbachev は明らかに合意があったと考えており、米国と西独はNATOを一歩たりとも東に拡大しないと約束した、と述べた。

プーチン大統領はGorbachev が米国に騙されたと考えている。

現在、ロシアの西側でNATOに参加していないのは、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバだけとなり、ウクライナが加盟すると、NATOがロシアの隣に進出することとなる。
(例えて言えば、ソ連が西欧を制覇し、カナダとメキシコを同盟に入れようというようなものである。)

プーチンにとってみれば、旧東独は別として、他の旧ソ連諸国へのNATOの進出そのものが約束違反ということになる。


今回、ヤヌコビッチ大統領が独仏ポーランドの3カ国外相と危機の打開策を協議し、2月21日に野党3党の代表と政治危機の解決に向けた合意文書に署名し、大統領選の年内前倒し実施や大統領権限を大幅に議会に移す憲法改正を9月までに行うことなどを決めた。

しかし、その直後に野党が政権を打倒、欧米諸国は新政権を支持した。

これについてプーチン大統領は、「憲法に反するクーデターが起きた」とし、新政権を法的な正統性がないとして否定する立場を表明している。


ーーー

クリミア半島も複雑な歴史を持つ。

戦後、クリミア半島はロシアに帰属する自治共和国であった。

1954年、クリミアはロシアからウクライナへ移管された。
当時のフルシチョフ書記長の決定で、公式には「ロシアとウクライナの友好のため」だったが、フルシチョフがクリミアを自分の生まれ故郷のウクライナに与えたかったからという話もある。
当時はソ連内部での移管であり、問題にはならなかった。

1992年1月にロシア議会が「ソ連がクリミアをロシアからウクライナへ移管したことは違法だ」と決議し、同年5月にクリミア議会がウクライナから独立を宣言し、クリミア共和国憲法を制定 したが、ロシアは軍事介入もクリミア共和国の承認もしなかったため、クリミヤ議会が独立宣言を取り消 した。

1994年の初代クリミア大統領選で、独立を主張するメシコフが当選し、議会も再度独立を決定した。
しかし、ウクライナはクリミアへの武力介入を構えを見せつつ、大統領と独自憲法を廃止させ、クリミアは1995年3月、ウクライナの統治下に戻った。

 

ソ連崩壊の過程で、主要基地であったセヴァストポリ軍港がウクライナ領になったことから、長らく二国間で協議が進められ 、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれた。この協定により、ロシア海軍は2017年までセヴァストポリに駐留することが認められた。

しかし、2004年にウクライナで親欧米派のユーシェンコ政権が誕生、EUやNATOへの接近を図る同政権は、黒海艦隊の早期撤退を求めた。
これに対し、ロシアはウクライナへの天然ガスの大幅値上げで応じた。

2010年の選挙で親露派と目されるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権が成立、同年4月、ヤヌコーヴィチはクリミアに駐留するロシア黒海艦隊の駐留を25年間延長することに合意した。

ティモシェンコ前首相は、ヤヌコーヴィチ大統領は外国の軍事基地駐留を認めない憲法17条を侵害したと非難した。
しかし、憲法裁判所長官は、ユーシチェンコ前大統領による合憲判断要請を法的根拠がないとして却下した。


プーチンは1954年のフルシチョフによるクリミア移管を批判しており、ウクライナの政変でウクライナがNATOに加盟し、黒海艦隊の早期撤退を求められることを恐れたと見られる。

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Kissingerは上記の寄稿のなかで、以下の通り述べている。

1. ウクライナは経済的、政治的な協力関係をどこと結ぶのか、自分で選択する権利がある。

2. ウクライナはNATOに参加すべきでない。(7年前からの主張である)

3. ウクライナは国民の意思に合った政権を創る自由がある。賢明なリーダーなら自国内の各層の間の調和を図るべきだ。
  フィンランドがよい手本となる。独立心を持ち、多くの分野で西側と協力するが、ロシアとの敵対は注意深く避けている。

4. ロシアのクリミア併合は国際ルールに違反する。
  ロシアはクリミアに対するウクライナの主権を認め、ウクライナはクリミアの自治権を強めるべきだ。

  黒海艦隊の駐留に関しては曖昧な表現は排除すべきだ。  

 


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