仁科芳雄博士の執務室

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毎日新聞夕刊(2018/8/15)の「憂楽帳」は、「仁科博士」という題で下記の通り書いている。

物理学で我が国最高の栄誉である仁科記念賞に名を残す仁科芳雄博士(1890~1951年)。東京都文京区にある空襲を免れた執務室が再来年、建物の老朽化で取り壊される。(中略)

ここで、ノーベル賞学者の朝永振一郎氏ら物理学者はもちろん、長く日本医師会長を務めた武見太郎氏も教えを受けていた。死後も執務室が残ったのは、薫陶を受けた各界のリーダーが、博士の人柄や業績を知る大切な場所と考えたからだという。

約40平方メートルの室内に残る木製の机や棚、黒電話などは別の場所で保管される見通しだ。(後略)


写真は、Livedoor News 「知られていない日本の原爆開発。太平洋戦争中の極秘作戦「ニ号研究」の歴史」から


仁科博士の執務室は、文京区本駒込の旧理化学研究所の37号館の2階にある。(写真左下) (初めの場所が間違っており修正しました。)
現在は、日本アイソトープ協会のなかに仁科記念財団が保存している。 2階には3つの窓があったが、真ん中の窓は後に埋められた。左端が執務室。

財団法人理化学研究所は、1917年3月、我国の産業の発展に資することを目的に、皇室からの下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付金を基に東京・文京区駒込 (現在の本駒込)の地に設立された。

残っていた⑥の43号館は数年前に解体され、賃貸マンションとなっている。

写真ソース  仁科博士とその時代 理化学研究所の歩みー駒込時代ー 


仁科博士の執務室は上図の右上⑤の37号館の2階にある。(下図ので囲った場所)

その左の⑦はサイクロトロン跡で、1937年に仁科博士がわが国初のサイクロトロン(26インチ 28トン)を作製したが、1945年に連合軍が原発開発とみなし、破壊、東京湾に投棄した。
ニューヨーク・タイムズは「米国の科学者らは...サイクロトロンは研究機器であって、原爆製造機械ではなく...この略奪行為に責任のある公務員は懲罰を受けるべきである」と報じた。

1958年10月に特殊法人理化学研究所が設立された。(2003年に独立行政法人理化学研究所になり、2015年に国立研究開発法人理化学研究所に変更した)

1966年に現在の和光地区に移転を開始した。1974年に移転を完了した。

駒込の跡地には科研製薬があったが、約20年前に文京グリーンコートとして再開発された。正面の緑が一部 残されている。

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