エチレン30万トン基準

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前回の「中国のエチレン生産」で「日本のエチレン30万トン基準」に触れた。
この機会にこれについてまとめてみた。

日本のエチレンの生産量の推移とエチレンセンターの推移は別紙の通り。
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/ronbun/ethylene.htm#suii

エチレン1期計画、2期計画までは通産省が認可したが、3期計画で新増設構想が殺到し通産省では調整不能となり、1964/12に官民協調方式の石油化学協調懇談会が設置された。当局と業界が同一の資格で委員を出し、投資調整を行うこととなった。

1965に協調懇談会はエチレンセンター設置基準を決めた。
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(1)エチレン能力は1系列年10万トン以上であることと、

(2)オレフィン留分を総合的に利用すること、
(3)原料ナフサの相当部分を供給する製油所に接続したコンビナートであること
(4)将来センターはエチレン生産能力を20万トン以上に拡大するものとし、用地・用水・輸送などの立地条件がこれに即応する可能性を有していること
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ところが1967/2には協調懇談会は「エチレン製造設備の新設の場合の基準」を決め、基準を一気に30万トンに引き上げた。
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1.大規模な設備であって,当該設備によリ製造されるオレフィン留分等について適正な誘導品計画があること
(1)エチレンの製造能力が年産30万トン以上であること
(2)誘導品の生産,販売計画について確実性があり、かつそれぞれの誘導品の生産分野を混乱させるおそれのないものであること

2.原料ナフサの相当部分についてコンビナートを構成する製油所からパイプによって入手できる見込みがあること
3.当該企業の技術能力,資金調達能力等が国際競争力ある石油化学コンビナートを形成するに適しているものであること
4.コンビナートを構成する製油所および発電所を含めて工場の立地について用地,用水,輸送等の立地条件が備わっており,かつ公害防止のうえで所要の配慮がなされていること

以上の基準の運用にあたっては,企業規模の拡大および石油化学コンビナート各社の連携の強化について配慮するとともに,あわせて地域開発効果についても考慮するものとする。
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これは開放体制下の国際競争に耐え得るため、設備を大型化して、既存の企業を提携または共同投資によって強化し、弱体コンビナートの乱立を防ごうとしたものであった
協調懇談会は、1971年の需要を246万トンと見込み、これに対して操業率を85%で所要生産能力は289万トン、既認可分190万トンを差し引いた99万トンを、新規増設分として認めることとした。

しかし、案に相違して、各社が申請した計画は9計画(当面7計画)に及んだ。

伊丹敬之「日本の化学産業 なぜ世界に立ち遅れたのか」では次のように述べている。
 「エチレン30万トン計画は、明らかに国内自給体制の確立から国際競争力の強化へと、政策目標が移行したことを意味していた。政府は量的拡大を達成するため、容易に認めてきた参入企業数を絞り込み、高いハードルを設定することで、体力のある企業に集約化し、国際競争力をつけさせようとしていたのである。つまり、30万トン体制を採用するためには、資金調達、市場開拓などの諸問題が新規参入を阻止して、これまでの小規模企業乱立という産業構造が統合され、国際競争力のある業界体制への再編が進むであろう、という意図が含まれていた。

 しかし、通産省のその思いもむなしく新増設は続き、完全に読み違えてしまったのである。確かに、通産省の予想どおり30万トン基準は、企業にとってはかなり高いハードルであり、単独で実施したのは2プラントのみで、残りは共同投資4、輸番投資3という具合であった。それでも、参入企業が相ついでしまったのは、つぎのような理由による。
 企業側としては、自分たちも30万トンエチレンセンターを建設すれば、十分に国際競争力をもつことができると思い、参入障壁となるはずだった30万トン基準が、逆に目標となってしまったからである。」

最終的には別紙の通り、10プラント(遅れて建設された出光千葉を入れると11プラントができた。http://kaznak.web.infoseek.co.jp/ronbun/ethylene.htm#30 
弱体コンビナートの乱立を防ごうとしたものが、結果的には、弱体コンビナートの乱立を生んだこととなる。
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/ronbun/ethylene.htm#center


なお、大協和石油化学の増設が10万トン基準により認められず、20万トン計画をたてた直後に30万トン基準ができ、最終的に興銀の全面的支援で東洋曹達が参加して「新大協和石油化学」が設立され、東洋曹達主導で30万トンエチレンプラントを建設した経緯について、高杉良の「小説 日本興業銀行」第30章「新大協和石油化学の創立と東ソーの合併まで」に詳しく書かれている。

コメント(2)

ヘッドコ-チと申します。はじめまして。

H大博士論文で、この30万トン規制は、「企業行動は、政府の規制がなくても生じえた、企業の合理的行動であり、基準に企業側が規定された結果である、とは必ずしもいえない。」というのを見つけました。40年前の事例が、去年博士論文となっていますね。びっくりですが、ひょっとして、このブログの管理人さんですか?

ちょっとだけ、化学企業について学んでいます。このブログを盛り上げましょう。

ヘッドコ-チ

情報ありがとうございます。

博士論文なんてとんでもない。単にデータを集めているだけです。

論文を見ていないのでなんとも言えませんが、当時は石油化学ブームで各社が増設を計画しており、欧米ではICIの50万トンをはじめ、30-50万トンが普通であったため、規制がなくても起こりえたかも分かりません。たまたまPVCの原料をアセチレンからエチレンに切り替える時期で大量のエチレン需要もありました。(これもMITI指導で共同で大規模センターをつくることになりました)

しかし、この規制が出たために、今30万トンでやらないと永遠にできないという考えが生まれ、当初の計画を早めたり、規模を拡大したこともあると思います。

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