イラン・ジャパン石油化学(IJPC)の歴史

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イラン・ジャパン石油化学(IJPC)は三井物産を中心とした日本側投資会社イラン化学開発(ICDC)とイラン国営石油化学(NPC)の50/50JVで、バンダル・シャプールに石油随伴ガスを原料とするイランで最初の総合石油化学コンプレックスを建設しようとするものである。当時のイランの石油化学はアンモニア、肥料が中心であり、石油随伴ガスは燃やしていた。

イラン側の要請を受け、三井物産を中心に現地調査を行ったが、余り芳しくはなかった。しかし、イラン側は熱心で、誘致のためロレスタン地区の油田の採掘権を与えることを交換条件とした。(これに当時多角化経営をしていた帝人が飛びついた。)

三井側はFSを実施、油田採掘権に引きずられる形で1971年に合弁基本契約を締結した。

油田の方は、1971年9月に、石油開発公団(75%)、帝人、北スマトラ石油、三井物産等が出資して投資会社・イラン石油を設立、イラン国営石油会社及びモービルとのJVの Iran-Japan Petroleum 設立してロレスタン地区(地図をクリックしてください)で採掘を開始したが、結局失敗に終わり、1977年に鉱区を返上している。 Iranmap

1971年12月、投資会社・イラン化学開発(ICDC)が設立された。
当初の出資は三井物産(49%)、東洋曹達(31%)、三井東圧(15%)、三井石油化学(5%)だったが、当時伊藤忠と組んで別途合成ゴム計画を検討していた日本合成ゴムが1973年に5%出資(物産から4%、東曹から1%)している。東曹の熱心さに比べ、三井東圧、三井石油化学が最初から消極的であったのが分かる。

1973年4月、イラン化学開発(ICDC)とイラン国営石油化学(NPC)の50/50JVのイラン・ジャパン石油化学(IJPC)が設立された。

計画内容は以下の通りであった。

立地:
バンダル・シャプール(現在のバンダル・イマム・ホメイニ)でペルシャ湾の最も奥にある。Bandarshapurmap_1 工場は幾つかの島を埋めた土地の先端にある。
隣にはNPCとAllied Chemical の肥料JVのShahpur Petrochemical (現在のRazi Petrochemical
)がある。近くのイラン・ニッポン石油化学(IRNIP)は 1973年に日商岩井(26.1%)と三菱化成(23.9%)がNPCとのJVとして設立した可塑剤製造会社で、1979年に日本側が撤退し、その後Farabi Petrochemical と改称し、現在も操業している。

原料:
Awaz油田とMarun油田の石油随伴ガスをAwaz近辺でNGLと燃料ガスに分離し、100km離れたプラントまで配管で輸送する。(当初はAwazでの石油随伴ガスの処理はJVの事業範囲)
BTX用のナフサはアバダン製油所から輸送する。プラントで回収した不要のガスは送り返す。
電解用の工業塩は塩田で天日製塩法で自製する。電気は自家発電。

製品:
製品と能力、技術サプライヤーは添付の通り。Ijpc
当初案ではSM(100千トン:バジャー技術)、キュメン(150千トン:三井石油化学)があったが、計画見直しで中止。SBR用のSMは購入。

プラントのレイアウト:(下図をクリックしてください)

Ijpclayout

建設費:
当初案では1,500億円(4億ドル:当時のレートは360円/$)

1973年4月にIJPCが設立されて半年後の10月に中東戦争が勃発し、第一次石油ショックが始まった。
製品の価格も上がるが、建設費が暴騰、74年初めの予想では2,900億円、74/10月には7,400億円と、当初案の5倍に膨れ上がった。

このためガス収集・輸送(1,400億円)をイラン側事業とし、残りを10%カットし総所要資金を5,500億円と想定、日本側3,000億円、イラン側2,500億円を調達(うち資本金各500億円)し、保証は2,250億円ずつとした。

問題は原料のガス価格で、当初は随伴ガスの井戸元価格を決めていたが、ガス収集・分離・輸送をイラン側事業としたためにプラントサイトでのガス価格を決める必要が生じたが、イラン側の担当が異なることもあり最後まで決まらなかった。

なお、所要資金の増大により東曹はナショナルプロジェクト化を主張したが、三井物産は拒否し、東曹はICDCへの出資比率を減らした。(1976年 東曹 30%→15%、三井東圧 15%→22%、三井石油化学 5%→13%)

1978年末には工事は85%の完成をみていたが、79年1月イラン革命が勃発した。日本人は追い出される形で総引き上げし、建設工事は中断した。
79年4月、イラン・イスラム共和国樹立宣言が行われた。
親会社5社は最早、民間企業のリスクの限界を超えているとの判断に立ち、政府の支援を要請、政府も第二次オイルショックで産油国イランとの友好関係を勘案し、ナショナルプロジェクト化を決定した。
政府出資枠は200億円としたが、イラン・イラク戦争で途中で打ち切りとなり、最終的には海外経済協力基金が54億円、民間100社
17億円を出資した。(政府+民間の出資合計 18.8%)
5社(81.2%)の間の出資比率は最終的に、物産 60%、東ソーと三井東圧各15%、三井石油化学と日本合成ゴム 各5%とした。

1979年11月、テヘランで米大使館人質事件が発生、80年4月に米国がイランと断交した。そうした中で、イラン側は工事の即時再開を日本側に強く迫った。日本側は工事再開のための諸条件不備を理由に反対したが押し切られ、6月に至り漸く工事再開に踏み切ることになった。
工事再開が軌道に乗り始めた80年9月、イラン・イラク戦争が始まった。

(続く)

コメント(5)

科学史(化学史?)の講義のようです。つづきはどうなるのでしょう?身近に行ってた人がいます。皆一刻も早く帰りたがってたようです。何千億円かけた化学企業の歴史に残るプロジェクトの一つですね。全部でどのくらいかかったのでしょう。考えさせられます。

本プロジェクトについては資料があまりありません。プロジェクトに参加した人も口をつぐんでいます。

インターネットで次の記事を見つけました。http://isweb15.infoseek.co.jp/novel/kamoten/tlog30.htm

『当時のIJPCプロジェクトに関わっていた方に長い聞き取り取材をしたことがある。その成果は本人の希望から封印されたままになっていて詳細はここで紹介できないが、彼が「イランと、つまりイスラムとの仕事はそもそもすべきではなかった。日本人が相手に出来るパートナーではなかった」と、あたかもタブーに触れたかのように恐れをもって語っていたことは印象的だった。』

参加した方をご存知なら、是非、問題点等を聞いてください。

イスラムの世界なら、今の、ラ-ビグも同じだと思います。その当時は、環境が今と大きく違うので、進出がちょっと早すぎたのかもしれませんが、うまくいっていた可能性もゼロではない。失敗プロジェクトであるので、文化、生活の違いのせいにしたがるのでしょう。昼間50度、夜氷点下、生臭い肉(羊?)、まったく違う文化です。ラ-ビグは、どうでしょう。もちろん成功すると信じています。

当時は全く状況が違っていました。国王を追放、ホメイニが亡命先から帰国してイラン全土が熱狂状態にあり、米国大使館員を1年以上、人質にするなど、無茶苦茶でした。高杉良「勇者たちの撤退―バンダルの塔」に当時の状態の記載がありますが、異教徒の日本人は殺されそうな状態だったようです。そういったイランが頭にあると思います。

今は違います。

掲載されてから二年余りも過ぎてしまいましたが、コメントさせて頂きます。
2009年10月からフジテレビで「不毛地帯」というドラマが放送されています。その中で大手商社のイラン鉱区入札の場面がクローズアップされており、実際は何という鉱区をどの商社がそして日本の石油産業がどのような歩み経て来たのか知りたくインターネットで調べていましたところ、こちらの掲示板に辿り着きました。

商社メインで入札や開発を行われている思っていたのですが、化学業界の歴史であったのですね。
日本の石油資源開発にこのような歴史があったとは知りませんでした。とても興味深い内容(資料)でした。詳細かつ簡潔にまとめてくださった著者に感謝いたします。

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