三井化学はこのたび、4月1日に三井武田ケミカルの武田薬品の持分全株式(49%)を取得して100%子会社とし、「三井化学ポリウレタン㈱」に社名変更すると発表した。
三井武田ケミカルは2001年4月に武田のウレタン事業の譲渡を受けて三井化学と武田薬品が設立したJVで、当初から5年後に三井化学に譲渡することが決まっていた。
これは武田國男現会長が、医療用医薬品に経営資源を集中して、医薬主体の『研究開発型国際企業』として世界競争を勝ち抜こうとして行った抜本的改革の一環である。
同社ではこれ以外に以下のように全ての多角化事業を切り離した。
動物用医薬品事業
・2000/3 シェリング・プラウとのJVを設立し譲渡(武田シェリング・プラウアニマルヘルス:武田40%)
・2005/6 シェリング・プラウに譲渡
ビタミンバルク事業
・2001/1 BASFとのJVを設立し譲渡(BASF武田ビタミン:武田34%)
・2006/1 BASFに譲渡
調味料事業を中心とした食品事業
・2002/4 キリンビールとのJVを設立し譲渡(武田キリン食品:武田49%)
・将来的には、キリン社が新会社の全株式を取得
ラテックス事業
・2002/10 日本エイアンドエル(住友化学/三井化学JV)に営業譲渡
農薬事業
・2002/11 住友化学とのJVを設立し譲渡(住化武田農薬:武田40%)
・2007/11に住友化学に譲渡の予定
活性炭、木材保存剤、工業用保存剤、環境汚染診断薬等の生活環境事業
・2003/4 分社化(日本エンバイロケミカルズ)
・2005/3 同社を含む生活環境事業を行う子会社・関連会社5社の株式を大阪ガスケミカルに譲渡することで合意
飲料・食品事業
・2006/4 ハウス食品とのJVを設立し譲渡
・2007/10 ハウス食品に譲渡予定
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これらの事業は武田の古くからの事業であり、必ずしも赤字事業ではない。武田全体としてはグラフ(クリックしてください)のように多額の利益を上げており、他の医薬品会社と比べて圧倒的な強さを示している。
それでもなお、このような抜本策を取るのは「マルチナショナルな巨大製薬会社がひしめくグローバル競争の土俵」で勝ち抜くためには必要だからである。
武田会長は日本経済新聞の「私の履歴書」に以下のように書いている。
「社長就任と同時にゴマスリはいらん、無駄な人員を減らせ、儲からん工場を閉めろ、医薬のかせぎに寄りかかっている多角化を見直せ、ひたすら吠えまくった。社内からは『独裁者』といわれ、雑誌には『バカ殿ご乱心』と書かれた。」
「我が社は本業の医薬以外に食品、化学、農薬などの多角化を進めていた。その結果、医薬専業の同業他社に比べて従業員が過大で、しかも生産性が非常に低かった。それなのに、だらだらと採用を続けている。」
「『人々の健康とすこやかな生活に貢献する』という理念を再認識してもらうことから始めた。その上で、東洋の一小島のローカル企業にとどまることなく、医薬主体の『研究開発型国際企業』として世界競争を勝ち抜こうと呼びかけた。これしか生き残る道はないという決意表明でもある。
「眠れる武田薬品を戦闘集団に変える構造改革に着手した。その集大成が95ー00中期計画。・・・1万1千人いる社員を7500人に削減する。早期退職優遇制度も導入し、不要な研究所や不採算の内外の工場を閉鎖する。医薬品の海外売上高比率を50%にする。食品や化学品などの多角化部門の自立を社内カンパニー制によって促す。そして年功より成果に基づく人事報酬制度など。どれも大ナタを振るうような厳しい内容であった。」
「国内市場中心の多角化から研究開発型の国際的な製薬会社に脱皮し、マルチナショナルな巨大製薬会社がひしめくグローバル競争の土俵に上がろうかというところまでこぎ着けた。」
「社長になって10年たった。この間、非効率、非合理だった仕組みを一つずつ改革し、会社の体質を変えていった。組織や人を変え、医薬外の事業を自立させていった。こういう基本的な問題に手をつけ、反発と摩擦を凌ぎながらトップダウンで推し進めるには、武田という名前とエリート社員にはない型破りの発想が役に立った。」
石油化学にはまだ、グローバルな競争に勝ち抜くためのこのような抜本的改革は見られない。
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