日本のエチレン第1期、第2期で9つのエチレンセンターができたが、そのうち6つがポリエチレンを中心としている。東燃化学・川崎では日東ユニカー、旭ダウ、昭和油化の3社が、三井石油化学・岩国大竹ではLDPEとHDPEの両方を企業化しており、合計9社が進出している。
これらは全て技術導入で企業化された。
化研フォーカスを主宰する栂野棟彦氏は1990年代初めに石油化学新聞主幹として「昭和を彩った日本の石油化学工業」を連載されたが、この中に各社が技術導入を競った当時の事情を詳しく書かれている。
当時はLDPEとHDPEの区別も分からず、とにかくポリエチレン技術をと、競争で導入に走った。
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ポリエチレンがないセンター ( )はエチレン主用途 ・出光石油化学(徳山):AA(徳山石化)、EDC(周南石化) ・三菱化成(水島):AA ・大協和石油化学(四日市):AA |
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ポリエチレンの技術
高圧法PE(=LDPE):
ICIが開発、1937年にパイロットプラントをつくったが、ドイツとの戦争激化で本格プラント建設は延期された。しかし、レーダー用の高周波絶縁材料として最適であることから強い要請を受け1942年に操業を開始した。
ドイツのロンドン空襲を受け、英国政府は重要技術を米国に疎開させることを決め、ICIはこれをデュポンとUCCに技術供与、両社は1943年に生産を開始した。
なお、BASFは戦前にICIから特許を購入し、自社技術で企業化した。
中低圧PE(=HDPE):
戦後、ドイツのマックスプランク石炭研究所長のチーグラー博士が常温、常圧に近い反応条件でポリエチレンをつくる技術を開発した。
米国フィリップスも開発に成功。
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各社の動きは以下の通り。
なお、当時は日本に物質特許がなく、製法特許のみであった。(1975年の特許法改正で物質特許制度を採用)
もし、当時から物質特許制度があり、どこかが独占権を取得していたら、日本の石化も随分違ったものになっていたであろう。
住友化学:
住化から京大に戻った児玉信次郎教授が戦時中に軍の要請を受け、住化と協力して高圧ポリエチレンの国産化に取り組んだが、戦後住化で中間試験工場をつくり開発を進めていた。
1954年にICIの調査団が来日、住化を技術供与先と決めた。1955年に契約を締結、1958年生産を開始した。
同社のエチレン誘導品はPEだけで(当時はPPはなく、プロピレンは燃料評価)、オフガスを肥料原料のアンモニアの原料ガス源とする異質のセンターであった。LDPEは大成功で、特にフィルムが圧倒的であった。
(しかし事業化の際には三井の中低圧ポリエチレンが安全でコストが安いという話から、危険な高圧操業の技術をなぜ導入するのかとの議論があったとのこと)
三井石油化学:
三井化学(当時)の石田社長が石炭化学技術を求めて訪欧、Dr. Zieglerを訪問して低圧ポリエチレンの存在を知り、特許独占実施権を購入(1955/1)、1955年7月に三井グループで三井石油化学を設立し、技術開発を進めて1958年に岩国工場をスタートさせた。
当初はHDPE「ハイゼックス」は販売不振で在庫が膨らんだが、フラフープの流行で在庫一掃となった。
三菱油化:
1956年4月に三菱油化が発足した。
同社は戦前にICIから特許を購入して高圧ポリエチレンを生産しているBASFに接触した。
ICIの特許で導入不可と思われたが、調査の結果、ICIは1939年に日本で特許を申請したが、戦後、再審査の請求がないまま有効期限が切れていることが判明、導入に成功した。
古河化学:
古河電工が1955年にフィリップスと予備交渉を行い、翌年の正式交渉でフィリップスは「非独占で対価165万ドル」、古川電工は「独占契約で技術料値下げ」を主張、その後フィリップスは「独占で330万ドル」と条件を変更した。
(実はその時点で昭和電工がフィリップスとの交渉を開始、フィリップスは古河に他社の交渉要請があるので急ぐよう伝えた)
古河化学では非独占契約で決心し、ドラフトを受領したが、サインを逡巡しているうちにフィリップスから他社と契約したとの通告をうけた。
古河電工は止む無く、工業化実績のないStandard Oil Company of Indianaの中圧PE技術を導入、1956年10月に古河グループで古河化学を設立して日石化学・川崎コンビナートにプラントを建設した。
しかし、製品は触媒から発生する物性上の欠陥から不調が続いた。Standardの責任追及の結果、Standard子会社 Amoco Chemicalsが増資を引き受けたが、累積債務が増大、最終的に事業を日石化学に譲渡、社名も「日石樹脂化学」と改称した。その後、チーグラー系触媒に変更している。
昭和油化:
昭和電工は1956年4月に古河化学に遅れてフィリップスと交渉を行った。当初は非独占契約で交渉をしていたが、調印直前にフィリップスから「独占契約・技術料330万ドル」の提示があり、現地で安西正夫副社長が決断し調印した。
1957年6月、昭和油化を設立、東燃石化・川崎コンビナートに工場を建設した。
(稼動後、高圧法PEのようなフィルムが出来ないことが分かり、フィリップスに抗議したが「サンプルをみて契約した。フィルムも出来ないことはないと言ったが、高圧法と同じものができるとは一言も言っていない」との返事)
当初販売は不振を極めたが、ビールコンテナ、パイプ、チューブ、食品・洗剤容器、テクスヤーン、フィルム等の新市場を開発、TV等で「ショーレックスは(三井の)ハイゼックスに非ず」と宣伝した。
なおHDPEプラントは昭電の大分工場稼動後、東燃石化に譲渡された。
日東化学、東亜合成、三井石油化学等は高圧法PE技術を求めて、英政府の戦時特例法でICIから技術供与を受けたデュポン、UCCと交渉した。
日東化学:
1959年にデュポンとUCCにライセンスを申し込んだが、両社とも関心なしとの返事を行った。
日東化学ではSD社(AGFOのイムハウゼン法がベース)と仮契約を行ったが、MITIは実績なしとして断念を働きかけた。
1960年になりデュポンが高圧法PE事業を中心とする対日投資方針を固め、日東化学、三井石油化学、東亞合成化学と個別会談した。
一時は日東化学に内定したが最終的に三井に決まった(後記)。
このため日東化学はUCCと交渉、三井/デュポンに対抗してのJV設立を説得、藤山社長の兄の外相がUCC社長宛て親書を出すなどの結果、1960年5月合弁契約を締結した。
日東ユニカーを設立、東燃石化・川崎工場にプラントを建設した。
同社はその後、1965/4に三菱レイヨンが日東化学の持株を肩代わり(1998 日東化学を吸収合併)、1966/8 日本ユニカーと改称、1980/4 東燃化学が三菱レイヨンの持株を肩代わりした。2001年ダウとUCCが合併し、日本ユニカーはダウが50%、東燃化学(エクソンモービル50.02%)が50%株主となる。
三井ポリケミカル:
1960年になりデュポンが高圧法PE事業を中心とする対日投資方針を固め、一時は日東化学に内定したが、東レ・田代会長が巻き返し、三井石油化学に決定した。
(東レは1951年に1,080百万円の巨費を投じてナイロンの特許権を購入している。デュポンは三井が東レと同じグループと知り、変更した)
デュポンはノウハウ800万ドルを主張したが最終的に400万ドル(1,440百万円)で決着、三井ポリケミカル(資本金2,880百万円)を設立した。
旭ダウ:
スイス・ダウ・へミーの高圧法PE技術は日東化学等が交渉したAGFOのイムハウゼン法がベースだが、当時と異なり、SDのエンジニアリングと米ダウの製造ノウハウを組合せ、工業化が実績あった。
1960年8月、旭ダウは技術導入契約を締結、東燃石化・川崎でプラントを建設した。
宇部興産:
宇部興産は1960年12月に丸善石化/丸善石油/新日本窒素肥料が検討していた千葉の石油化学コンビナートに参加を決定、最初は米国のスペンサーケミカルに高圧法PEの技術を求めたが、スペンサーはICIとの関係でライセンスできないとして、技術を開発したばかりのレクゾール・ドラッグ&ケミカルの高圧法PE技術を紹介、1961年9月、技術導入を行った。
その後丸善石油の経営危機で、1964年に丸善石油50%、宇部興産、新日本窒素、電気化学、日産化学、日本曹達が各10%出資して丸善石油化学を設立した。
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