鎌田正二著 「北鮮の日本人苦難記 -日窒興南工場の最後ー」という本がある。
鎌田氏は元チッソの社員で、チッソの前身の日本窒素が戦前に北朝鮮の興南(今の咸鏡南道咸興市)に大規模コンビナートを築き、敗戦で社員が日本に引き上げる苦難を描いたものである。
チッソは1906年に初代社長野口遵によって鹿児島県大口市に建設された水力発電所がその第一歩で、1908年に熊本県水俣市でカーバイドの製造を開始、社名を日本窒素肥料とし、石灰窒素や硫安の製造にも着手して、日窒コンツェルンの中心となった。
(第二次世界大戦後、日窒コンツェルンが解体され新日本窒素肥料となり、1965年にチッソと改称した。)
北朝鮮の屋根といわれる蓋馬高原には鴨緑江の大支流が北に向かっているが、これを堰きとめて大人造湖を造り、日本海に向かって落とせば素晴らしい大電力になるとの構想が立てられた。野口遵は1926年、日窒の全額出資で朝鮮水電を設立、1929年に第一期工事が完成して送電が開始された。
この電力を消費するために建設されたのが興南工場で、1927年に朝鮮窒素肥料を設立、硫安の製造を開始した。
その後、工場はドンドン拡大された。
肥料工場では硫安、硫燐安のほか、過燐酸石灰や乾式燐酸からの燐安の設備をもつに至った。
また火薬の原料であるグリセリンを自給するための油脂工場が昭和7年に完成した。グリセリンは延岡及び興南に建設された朝窒火薬の火薬工場に送られた。
脂肪酸からつくる洗濯石鹸、化粧石鹸は、内地、朝鮮はもちろん、満州、台湾、中国の市場に向けられた。
興南肥料工場の東北に興南金属工場がつくられた。アルミニウム工場、マグネシウム工場、カーボン工場、製鉄工場などがあった。
アルミニウム工場は朝鮮木浦(モッポ)附近の明礬石を原料とした。
宝石工場ではアルミナを酸素水素焔で溶融して、軸受けなどに使われるルビー、サファイアの原石をつくった。
本宮工場では、苛性ソーダ、エチレングリコール、ブタノール、アセトン、アセチレンブラックなどアセチレンを原料とする諸工場ができ、またアランダム工場、塩化アンモニア肥料工場、アンモニア工場が建設された。
日窒燃料工業の竜興工場ではアセチレンからアセトアルデヒドをつくり、アルドール、クロトンアルデヒドを経てブタノールとし、これよりイソオクタンを製造した。
朝窒火薬では硝酸、硝酸アンモニア、過塩素酸アンモン、綿火薬、黒色火薬、導火線、カーリット、ダイナマイト、窒化鉛、ヘキソーゲン等の工場が並び、火薬綜合工場となった。
最盛期の能力は以下の通り。
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/blog/chisso-konan.htm
日本窒素は興南以外の朝鮮で、咸鏡北道の永安工場、灰岩工場(朝鮮人造石油)、平安北道の青水工場(日窒燃料)、南山工場(日窒ゴム工業)の諸工場があり、永安、朱乙、吉州、竜門に石灰の鉱業所があった。
また満州で吉林人造石油、北支太原で華北窒素、台湾で台湾窒素、海南島で日窒海南工業、それにジャバ、スマトラ、マラヤなどに進出していた。
しかし日本窒素の事業の中心は興南であった。
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興南工場は第二次世界大戦中は、何等の損傷を受けなかった。
1945年8月19日、ソ連軍が元山に上陸、26日に興南工場はソ連軍に接収された。
しかし、朝鮮戦争が始まり、1950年7月末から8月初めに米軍の爆撃で工場は完全に破壊された。
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インターネットの記事に、1991年4月、在日朝鮮人企業との合弁の国際化学合弁㈱という会社が興南に工場を建設したという情報がある。事業内容は北朝鮮に眠るモナザイド等のレア・アース(希土類)の製錬で、さらに塩酸、硝酸、苛性ソーダ、アンモニアなどの関連工業の技術向上をはかるとの目標を掲げているという。
資料 鎌田正二著 「北鮮の日本人苦難記 -日窒興南工場の最後ー」
私の祖父は朝鮮窒素興南で働いておりました。戦争前に若くしてなくなり私は当時の写真でしか顔を知りませんが。
母も興南育ちで中学までいたと聞いています。
以前に「北鮮の日本人苦難記 : 日窒興南工場の最後」(鎌田正二/ 時事通信社,1970)を読んで、記事にしました。
この本は 東京都の中央図書館にあります。
(図書請求番号 3693/K086/H )
興南工場全景写真を同書からコピーしてHPに載せていますのでご覧ください。
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/munikai/korea/n-korea-n.htm#zenkei