旭化成ケミカルズは8月8日、同社とダウ・ケミカルのJVのスタイロンアジアと斯泰隆石化(張家港)有限公司の旭化成ケミカルズ持分を、ダウ・ケミカルに譲渡することに合意したと発表した。
スタイロンアジア
英文名: Styron Asia Limited
株 主:旭化成ケミカルズ、ダウ・ケミカル両社折半(50/50)
設 立: 1994年
事 業:PSの中国顧客および東南アジア日系顧客へのマーケティング会社
本 社: 香港
斯泰隆石化(張家港)有限公司
英文名: SAL Petrochemical (Zhangjiagang) Co., Ltd.
株 主:旭化成ケミカルズ、ダウ・ケミカル両社折半(50/50)
設 立: 1998年設立、2002年11月商業運転開始
事 業: ポリスチレンの製造・販売
能 力: 120千トン/年、HIPSを製造
本 社: 中華人民共和国江蘇省張家港市
譲渡理由として同社では、新中期経営計画 「Growth Action-2010」において、PS事業を、差別化、特殊化により付加価値アップを指向していく事業と位置付けており、この方針に基づき、汎用用途が主体であるアジアの2つのPS共同出資会社についてはダウ・ケミカルに譲渡することとしたとしている。今後、PS事業は、PSジャパンを事業主体として更なる差別化、特殊化戦略を推進するとしている。
* 新中期計画ではグローバル型事業拡大戦略の対象として、ケミカル系では、
汎用系は優位性、独自性のある事業の拡大で、プロパン法ANM、直メタ法MMAなど
高機能系では技術力に基づく未開拓・有望市場として、スパンデックス、メンブレンバイオリアクター、エラストマーを
あげている。
同社は、旭化成グループとダウ・ケミカルは従来から友好的な関係にあり、今後も他分野での新たな提携の可能性を協議していく予定としている。
これは日本の化学企業での中国からの撤退の第1号である。
旭化成とダウがPS事業で別れるのは、これが2度目である。
最初は旭化成による旭ダウ(50/50JV)の吸収に伴うもので、当時の両社の事情が合致したことによる。
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1952年7月、旭化成とダウケミカルの50/50JVの旭ダウが設立された。
旭化成は1946年から2年以上労働争議が続いた。それが解決し、新生「旭化成」として、ベンベルグ絹糸、レーヨンの次に何をやるかが問題となり、ポリアミド繊維か、ダウが開発した塩化ビニリデン繊維(サラン)かの選択となった。
当時はナイロンはコークス副生の石炭酸を原料としたが、旭化成は石炭をもたず、逆に塩化ビニリデン原料の塩素をもち、カーバイドも近くで入手できることから塩化ビニリデンを選んだ。
旭化成は日本でのダウとのJVを計画し、ダウに当たった。呉羽化学も同様の計画でダウに接触した。
ダウは旭化成を選び、1952年7月、50/50JVの旭ダウが設立され、延岡に塩化ビニリデン5t/dのチップ製造工場、鈴鹿に5t/dの紡糸工場を建設した。
塩化ビニリデンは米国では自動車用シートとして売れていたが日本では需要がなく、繊維としては着色面で欠陥があり、魚網用などで販売したが全く売れなかった。
(その後、塩化ビニリデンは食品包装材料として復活、1960年に「サランラップ」を販売開始した。)
旭ダウは3年半で累積損失が1億円になり、膨大は在庫を処分した損失が8億円発生した。旭化成はこれを全額負担することとし、ダウの信頼を得た。
ダウはポリスチレンの事業化を推奨、同社の技術と融資を受けて、1957年4月、ダウからの輸入SMを原料に、川崎でPS月産475t の生産を開始した。
(これは三菱モンサント化成のスタートの1ヶ月後である。三井石油化学の日本最初のエチレンのスタートは1958年2月であり、日本のPS事業はこれに先立つものである)
塩化ビニリデンと異なり、今回は事前に十分市場調査をしており、うまくスタートできた。
その後、日本石油のエチレンセンターに参加し、SMを国産化、その後、1964年にABSを自社技術で起業化(1975年にダウに技術輸出)し、SBRラテックスなども生産開始し、スチレン系を揃えた。
1960年8月にはスイス・ダウ・へミーから高圧法PE技術を導入した。
1970年の水島の旭化成のエチレンセンター稼動に合わせ、HDPE 4万トン/年を自社技術で生産している。
1960年のサランラップ発売後、旭ダウは他社が当時行っていなかった川下事業を順次行った。
1962年 発泡ポリスチレン「スタイロフォーム」
1967年 発泡HDPE
1968年 二軸延伸PSシート
1972年 合成木材(PS連続押出低発泡板「ウッドラック」)
その他
当時の堀社長は「エチレンではめしは食えない」と述べ、誘導品や川下製品の需要を重視した。
堀社長は1974年7月に第7代の石油化学工業協会会長に就任した。石化協会長はそれまで、三菱油化、日本石油化学、三井石油化学、住友化学、三菱油化、三井石油化学と、主要センター会社が就任しており、センター会社で就任していない会社が多い中での旭化成の日米合弁会社の旭ダウ社長の就任は異例であったが、石油ショックのなかで、堀社長のリーダーシップが期待されたと言われている。
旭ダウは好業績を続け、優良会社として高い評価を得た。
旭ダウ業績 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10~9月決算 単位:億円 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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旭ダウは好業績を背景に親会社の旭化成、ダウと等距離を保ち、独立路線を維持した。
しかし、同社は石油危機に際し、原燃料高騰に危機感を抱き、安価原料入手を模索した。
これは水島コンビナート維持を図る旭化成にとり、受け入れがたいことであった。
他方、ダウは80年に入り業績悪化、欧米企業に珍しく借入金依存体制の同社には大問題で、ファイン、スペシャルティへ重点移行し、借入金依存体制からの脱却を目指し、韓国、サウジ、豪州の海外事業から撤退した。旭ダウも対象となった。
1982 韓国ダウ、Korea Pacific(電解、EDC、VCMのJV)持株を韓国火薬に売却(現在のハンファ)
1982 SABICとのJV(Petrokemya)から離脱
旭化成は旭ダウの合併を決意、ダウも合意した。
1982/3/2 合弁解消契約
6/1 旭化成100%
10/1 合併
なお、この条件として、発泡PS(スタイロフォーム、ウッドラック)事業はダウへ移管された(ダウ化工設立)。
また、旭化成は15年間(1997年6月まで)は東南アジアでPSを、日本で押出発泡PSを生産できないと決められた。
(同様にダウも、日本でのPS生産やライセンスは15年間出来ない)
参考資料
松尾博志「日本ジョイントベンチャー成功の秘密 旭ダウ物語」(1980年 日本工業新聞社)
旭化成社史
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発泡PS事業のダウ化工への移管後も原料PSは旭化成が全量供給していた。
しかし、1988年4月、ダウと住友化学はポリカーボネート事業でJV契約を締結、ダウは住友ノーガタックに35%出資した。
(1992年4月にダウ50%出資とし、社名を住友ダウと改称した。
PC工場完成後の1995年末にはABS、ラテックスを分離して住化ABSラテックス、現在の日本A&Lを設立した)
住友化学はこれの見返りにダウ化工に35%出資するとともに、原料PSの75%の納入権を得た。
(これが材料にもなり、住友化学と昭和電工は両社のJVの日本ポリスチレン工業とは別にそれぞれ千葉と川崎にPSプラントを建設することとなる。住友化学はBASF技術を導入した。昭和電工はAto技術。
その後、日本ポリスチレン工業は解散、昭和電工は旭化成に商権を譲渡し、撤退。住友化学は三井化学とPS事業を統合して新しく日本ポリスチレン㈱を設立)
旭化成ではこれにショックを受けた。
この後、旭化成はダウとの関係強化を図っている。
当初、運賃節約のためのスワップから出発したが、1994年香港に50/50出資のスタイロンアジアを設立して、PSの中国顧客および東南アジア日系顧客へのマーケティングを行った。
旭化成が東南アジアでPS事業を出来ない期間(1997年6月まで)が過ぎた後、旭化成は独自に生産するのではなく、ダウとのJVを選択、中国に50/50のJVの斯泰隆石化(張家港)有限公司を設立した。
今回、この両社の持分をダウに譲渡するもので、旭化成としてはPSのアジア市場から撤退することとなる。
なお、旭化成のPSの日本の拠点はPSジャパンで、出資は旭化成 45%、三菱化学 27.5%、出光興産 27.5%となっている。
三菱化学はタイに100%子会社のHMTポリスチレン(9万トン)を持つ。
出光興産はマレーシアでPetronasとのSM 製造JVの Idemitsu Styrene Monomer (M) Sdn Bhd (200千トン)、98%出資のPS子会社Petrochemicals (Malaysia)(14万トン)を持ち、インドネシアとマレーシアにPS難燃コンパウンドの子会社を持っている。
また、台湾の高福化学工業にも35%出資している。
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