日本のPVCの生産は第二次世界大戦前の日本窒素に始まるが、戦後、多くのメーカーが進出した。
当初は石油化学誕生以前で、製法はカーバイド・アセチレンと塩酸を反応させ、VCMをつくるものであった。
PVCの生産が増える中でカーバイドと苛性ソーダに構造的な矛盾が発生した。電力料金のアップによりカーバイドの増設が困難となり、これに代わる炭化水素源が必要となったこと、塩素の需要増でソーダが余剰となり、特に東洋曹達、徳山曹達、旭硝子、宇部曹達(現・セントラル硝子)のア法4社に問題が出てきたことである。
アセチレン法からの転換:
米国では既にエチレンと塩素からVCMを製造するオキシクロリネーション法が採用されていた。
日本では先ず、エチレンからのEDCを原料にVCMを、副生する塩酸をアセチレンと反応させVCMをつくるEDC法が使われた。
日本ゼオン(高岡)と呉羽化学(錦)はいずれも自社技術を開発し、ナフサからエチレンとアセチレンの混合ガス(ゼオンはこれを分離)からエチレンと塩素、アセチレンと塩素を反応させてVCMを生産した。呉羽はその後、原油の分解ガスも原料とした。
住化はSBA法を導入してナフサからエチレンとアセチレンを分離し、アセチレンをアクリロニトリル(旧法)とVCMの原料とた。
これらはいずれも採算等の面からその後停止した。
1964年頃から各社のオキシ法への転換が始まった。
アンモニア法か性ソーダの電解法への転換:
1961年11月、通産省は 「アンモニア法か性ソーダの電解法への転換方針」を出し、カーバイド法からの原料転換を奨励するとともに、ア法ソーダの電解法への転換を進めることとし、ア法メーカーのEDC計画を塩素消化の面から支援することとした。
ア法メーカーはPVCへの進出を希望したが当初はEDCのみを認めることとし、第二期エチレン計画の中で、1964年に東燃石油化学・川崎の誘導品としてセントラル硝子の、出光石油化学・徳山の誘導品として東洋曹達、徳山曹達のJVの周南石油化学のEDC計画がスタート、その後、1967年に旭硝子は旭ペンでVCMに進出した。
PVCの増設に当たっては、第1次から1972年に完成する第5次増設まで、通産省の指導と了承の下で実施された。
ア法4社のPVC進出はなかなか認められず、徳山曹達は1967年に鉄興社の増設枠を使って鉄興社/ダイセルとのJVのサン・アロー化学を設立して徳山でVCMとPVCを、東洋曹達は1970年に同じく鉄興社の増設枠を使って鉄興社とのJV 四日市鉄興社を設立して四日市でPVCの生産を始めた。
(後、1975年に東洋曹達は鉄興社を吸収合併し、徳山曹達はサン・アロー化学を100%子会社とした。周南石油化学はそれぞれの工場内にEDCを生産するものであったが、1978年に解散した。)
セントラル硝子子会社のセントラル化学は1970年にVCM、74年にPVCの生産を開始した。
旭硝子は73年にPVC生産を開始、ア法4社がすべてPVCに進出した。
VCMセンター構想:
1966年12月、通産省は「塩化ビニルモノマーセンター構想」を発表した。①今後のVCMは石油化学方式を採用することとし,カーバイド・アセチレンを原料とする設備はできるだけ早く転換する。②立地はエチレンセンター隣接地とし,規模は年産10万トン以上とする、等というものである。
更に1969年3月、通産省は「塩化ビニルモノマー設備増設計画の調整について」を出し、VCM専業企業とPVC企業との共同投資が望ましいとした。
この結果、30万トンエチレンセンターを中心に多くのVCMセンターが出来た。エチレンセンターにとっては、旧法転換によるため需要の裏づけがあること、エチレン消費量が大きいこと(20万トンVCMでエチレン10万トンを消費)から、30万トン構想の実現に大いに役立つものとなった。
塩化ビニルモノマーセンター計画 単位:千t/年
地区 | 会社名 | 生産能力 | 完成時期 | エチレンセンター | 供給先 |
鹿島 | 鹿島塩ビモノマー | 220 | 1970年8月 | 三菱・鹿島 | 信越化学、日信化学、鐘淵化学 |
千葉 | 千葉塩ビモノマー | 160 | 1971年4月 | 住化・千葉 | 住友化学、群馬化学、チッソ、電気化学 |
川崎 | セントラル化学 | 60 | 1970年4月 | 東燃・川崎 | 東亜合成化学 |
泉北 | 三井泉北石油化学 | 120 | 1970年3月 | 大阪石化・大阪 | 三井東圧化学 |
水島 | 水島有機 | 200 | 1970年9月 | 化成水島 | 日本カーバイド、三菱モンサント化成、 韓国化成 |
水島 | 山陽モノマー | 120 | 1970年7月 | 山陽エチレン・水島 | 日本ゼオン、チッソ、旭化成 |
南陽 | 東洋曹達 | 150 | 1968年7月 | 出光・徳山 新大協和・四日市 |
日信化学、信越化学、東亜合成化学、 徳山積水 |
徳山 | サン・アロー化学 | 110 | 1970年4月 | 出光・徳山 | 自消、輸出、その他 |
錦 | 呉羽化学 | 150 | 1970年10月 | (原油分解法) | 自消 |
注 日信化学は後、信越化学が吸収、群馬化学は電気化学が吸収
幻の常陽モノマー計画:
1973年頃、呉羽化学は1976年以降の次期VCMとして、三菱油化の鹿島コンビナートの第2期計画の一環としての、旭硝子、日本ゼオン、三菱油化との共同事業を検討した。「常陽モノマー」計画と呼ばれた。
呉羽化学:VCM不足対応
旭硝子:PPGのオキシクロリネーション法モノマー工場の操業引受、PVC進出に意欲。
日本ゼオン:東日本に生産拠点希望。
三菱油化:エチレン増強
平行してPVCについて、呉羽化学、旭硝子、三菱モンサント化成の共同投資「常陽ポリマー」計画が検討され、呉羽化学の懸濁重合法によることがほぼ決まった。
しかし、その後の石油危機による不況で三菱油化のコンビナート拡張計画がつぶれ、1976年交渉は打ち切られた。
(呉羽は混合ガス法、原油ガス法VCM設備の停止後、旭硝子、住友化学からの購入に切り替えた。)
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各社の動き
VCM能力(単位:千トン)
'97 | '98 | '99 | '00 | '01 | '02 | '03 | '04 | '05 | PVCメーカー | |
鹿島塩ビモノマー | 600 | 600 | 600 | 600 | 600 | 600 | 600 | 600 | 600 | 信越化学 カネカ |
カネカ(高砂) | 520 | 520 | 520 | 520 | 520 | 520 | 520 | 520 | 520 | カネカ |
京葉モノマー 旭ペン |
200 50 |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
200 ー |
輸出 (呉羽化学) |
トクヤマ | 300 | 300 | 300 | 300 | 300 | 300 | 330 | 330 | 330 | 新第一塩ビ |
山陽モノマー | 230 | 230 | 230 | ー | ー | ー | ー | ー | ー | |
千葉塩ビモノマー | 210 | 210 | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | |
東ソー | 784 | 784 | 1,034 | 1,034 | 1,034 | 1,046 | 1,046 | 1,046 | 1,443 | 大洋塩ビ |
三井化学 | 109 | 109 | ー | ー | ー | ー | ー | ー | ー | |
三菱化学 ヴイテック |
300 |
300 |
300 |
ー 300 |
ー 300 |
ー 300 |
ー 347 |
ー 347 |
ー 391 |
ヴイテック |
セントラル化学 | 132 | 132 | 132 | 132 | 132 | 132 | ー | ー | ー | |
合計 | 3,435 | 3,385 | 3,316 | 3,086 | 3,086 | 3,098 | 3,043 | 3,043 | 3,484 |
各社が撤退する中で、ビニルチェーンの拡大を図る東ソーの大増設が目立つ。
以下に各社の動きを見る。
鹿島塩ビモノマー(三菱化学・鹿島コンビナート)
1964/8 三菱油化が四日市に次ぐ第2の工場立地として鹿島地区進出を決定
当初エチレン15万トンを計画、これを修正して1966年年産30万トン計画を通産省に提出
VCM、食塩電解、塩ビ樹脂およびアンモニアを企業化するために有力企業を誘致
1968/2 鹿島塩ビモノマー、鹿島電解 設立
出資比率:
鹿島電解 鹿島塩ビ 旭硝子 25% 10% 旭電化 23% 5% 信越化学 23% 50% 鐘淵化学 8% 10% 三菱油化 21% 25%
三菱油化はエチレンセンターとして両社に参加
能力: 苛性ソーダ 年産 264千トン
塩ビモノマー 年産 220千トンVCM引取り: 信越化学(PVC 20万トン建設)
鐘淵化学(PVC 5万トン建設)
旭硝子(製造委託)。
その後、三菱油化と三菱化成(塩ビ生産)の合併で、三菱化学が5万トンのVCMを取得するが、
2000年に旭硝子とともに放棄。
現在の能力 600千トン。引取りは信越が492千トン, カネカが108千トン。
カネカ(高砂)
1995年10月、塩ビ・ソーダ事業の強化について発表
高砂工場を中心に電解-VCM-PVCの一貫製造の優位性を生かし、競争力の強化により単独生き残りを図る。
PVC:現状の高砂・大阪・鹿島3工場合計300千トンを年末に370千トンに増強
将来は高砂・鹿島2工場で450千トン以上の体制へ
VCM:高砂のVCM 470千トンをデボトルキングで年末に 520千トンとする。
鹿島塩ビモノマーの同社枠を加えると600千トンとなる。(→ 現在 628千トン)
苛性ソーダ:高砂の電解の増強に着手、段階的に合計120千トンの能力増とする。
京葉モノマー、旭ペン (旭硝子、丸善石油化学エチレンセンター)
1966年、旭硝子は米PPGインダストリーズとの50/50JVの旭ペンを設立した。
VCMと塩素系溶剤を一貫して生産するもので、設備能力はEDC 250千トン、VCM 50千トン、溶剤が合計730千トン。
このほか、旭硝子は鹿島塩ビモノマー、千葉塩ビモノマーに参加し、それぞれからVCMを引き取っている。
1993年、旭硝子は丸善石油化学とのJVの京葉モノマーを設立、200千トン能力プラントを建設した。
工場は1995年春に完成したが、呉羽は同年7月これに参加し、25%の引取権を得た。
出資比率 引取比率 旭硝子 56.25% 75.00% 丸善石化 18.75% - 呉羽化学 25.00% 25.00%
1998年5月、旭硝子は旭ペンの5万トン設備を停止した。
なお、旭硝子(と三菱化学)は鹿島塩ビモノマーに出資するとともにVCMの引取権をもっていたが、
2000年3月に引取権を信越化学と鐘淵化学に譲った。
2003年3月、旭硝子は新中期経営計画「StoG2005」を発表した。
発表の席で、石津社長は懸案の国内クロール・アルカリ事業の再構築について以下のように述べた。
「当社単独でできる施策は完了した」
「鹿島地区には大きな問題意識を持っておらず、千葉地区の構造改革が最大のテーマ」
「コンビナートの再編動向をにらみながら、ベストなタイミングで取りうる施策を着実に実施する」
同社では千葉の電解とVCM(京葉モノマー)の停止の方針を決め、関係各社への根回しを始めた。
しかし、エチレン需要100千トンを失うこととなる丸善石油化学の反対を受け、当面操業を継続することとした。
その後の中国バブルでVCMの輸出が好調なため、操業を継続している。
なお、呉羽化学は京葉モノマーからの5万トンのVCM引き取り枠を保有しているが、大洋塩ビにPVC事業を譲渡、
その後製造を停止した。
このため、錦工場の塩化ビニリデン原料として使用する2-3万トンを除いた分については、
大洋塩ビの親会社の東ソーに任せることとした。東ソーは大洋塩ビの千葉工場に供給する。
(続く)
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