イラン サルベスタン油田

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このところ、「伊藤忠 イラン」という検索キーワードで、本ブログへのアクセスが多い。

不思議に思っていたら、山崎豊子の小説「不毛地帯」であった。

サルベスタン鉱区はイラン南部のシラズ空港から200キロの地点にある鉱区で、石油の埋蔵量は2億トンから8億トンと推定される。
持ち主のコンソーシアムは、開発から3年が経過しても石油を発見できなかったため、放棄した。

近畿商事(モデルは伊藤忠商事)は、サルベスタン鉱区が国際入札にかけられることをいち早く察知し、日本石油開発公社から支援の内諾を取り付けるが、五菱商事など財閥系の政治力により、5社連合の末席に追いやられる。

このため、近畿商事は5社連合から離れて、独立系のオリオン・オイルと手を組み、国際入札に臨み、1番札を獲り、5本目の井戸で石油を掘り当てる。

これは全くのフィクションである。

実際のSarvestan油田はShiraz の110km南東にあるが、推定埋蔵量は石油 136百万バレル(=18百万トン)とガス 4500億立法フィートという小さな油田に過ぎない。
コンソーシアム(イラン国営石油財団)が4本の井戸を試掘した後、封印され、商業採掘は行われていなかった。

イランでは1951年にムサデク政権がAnglo Iranian Oil が掌握していた石油を国有化した。

これに対しメジャーは日本などの消費国にイランと取引をしないよう圧力をかけたが、出光興産は1953年に日章丸二世(1万9千重量トン)でアバダンよりガソリンと軽油を輸入した。(Anglo Iranianは積荷の所有権を主張し、東京地裁に提訴したが、出光が勝訴した。)

1953年のクーデターでムサデク政権が崩壊、シャーが復帰して、1954年に「セブン・シスターズ」とフランス石油(CFP) がイランの石油開発のためにコンソーシアムを設立した。
出資比率は、Anglo IranianBritish Petroleumと改称)が40%、Shell 14%、Exxon 8%、Socal 8%、Texaco 8%、Mobil 8%、Gulf 8%、フランス石油 6%。

イラン国営石油はSarvestan油田とその20km北にあるSaadat Abad 油田の開発を計画し、1998年に入札が行われた。

両油田を合わせてオーストリアのOeMV Borealis の株主)が選ばれた。OeMVが60%、ギリシャのHellenic Petroleum 30%、残りをイラン国営石油が出資する。

Sarvestan油田の生産量は日量12千バレル、Saadat Abad 油田は4500バレルとなっており、原油はShiraz製油所に送られる。

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伊藤忠はイランでの石油開発は行っていない。

伊藤忠は1970年にジャパン・ローサルファーオイルを設立した。

米国のIndependent Indonesian American Petroleum が他のパートナーと組んで、インドネシアの南東スマトラ沖、北西ジャワ沖の権益を保有、生産をしていたが、伊藤忠と電力会社等がこれに協力して(7%出資)、低硫黄原油を日本向けに輸入することとし、ジャパン・ローサルファーオイルを設立した。

また、1972年にシーアイエネルギー開発を設立し、インドネシアのイリアンジャヤ、フォーゲルコップ鉱区の生産分与契約を獲得した。

両社は1984年に合併して伊藤忠石油開発となった。

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日本企業のイランでの石油開発ではLorestan油田開発がある。

イラン国営石油(NIOC)は、1970年7月、イラン油田の開発に外国資本を呼込むため、陸上鉱区と海上鉱区の国際入札を行うことを発表した。この中の陸上鉱区であるLorestan地区は、成功の可能性が大きいという情報に基づいて、日本の石油開発公団が帝人に声を掛け、帝人が北スマトラ石油、三井物産等を呼び込んで日本グループを結成し、鉱区落札を狙った。

海上鉱区はMobilAmerada-Hessの2社が落札した。

鉱区落札のためには、利権料支払いのほかに、付帯条件としてイラン側と何らかの事業を行うことが必要であった。
当初イランは、付帯条件として日本に共同の石油精製施設を作ることを目論んだが、これは日本政府の承認するところとならず、代りとなったのがイラン・ジャパン石油化学である。

1968年11月、日本財界代表による経済使節団がイランを訪問し、パハラヴィ国王をはじめイラン要人と会見して、日本の対イラン貢献策を話し合った。
各社のうち、三井物産が翌1969年2月に現地に調査団を送り、石油化学プラントの採算性調査を開始し た。調査の結果、採算性はあまり芳しくないことが判明したが、イラン側の熱心な態度に動かされて、再調査を行うことになった。
1971年4月、第二次経済使節団がイランを訪問、日本側は石油化学プロジェクトに種々の留保条件を付けながらも、これを石油鉱区入札の付帯条件とすることを決めた。

この条件で応札することにより、1971年6月、日本側はLorestan鉱区を落札した。
日本側の支払うボーナスは3500万ドルの多額であった。

同年9月に投資会社、イラン石油が設立された。大屋晋三帝人社長が社長に就任した。

石油開発公団 75.0%        
帝人  6.7%(石油開発公団の呼びかけに応じ獲得に乗り出す)
北スマトラ石油開発協力㈱  6.7%(探鉱開発技術の要件を満たすため帝人が提携)
三井物産  5.0%(極東石油親会社:原油販売先の要件を満たすため帝人が参加を要請)
三菱商事  1.6%(当初石油開発公団と合同調査するが「リターンが少ない」として断念)
その他  5.0%

北スマトラ石油開発協力は1960年に設立され、インドネシア国営石油会社プルタミナとの「生産分与契約」の下に石油開発に当たった。

19723月にIran-Japan Petroleum 設立された。
イラン側要請で日本の権益の1/3をモービルに譲渡し、イラン国営石油会社(50%)
イラン石油モービルのJVとなった。

9本の試掘をしたが失敗、モービルの開発断念提案を受け、1977年12月に鉱区を返上した。 

Lorestan油田落札の条件で開始したイラン・ジャパン石油化学は、その後、大変なこととなった。

2006/3/27 イラン・ジャパン石油化学(IJPC)の歴史

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直接の開発ではないが、カリンガス(Kangan Liquefied Natural Gas)計画というのがあった。

東北電力がイランのKanganガス田のガスを液化して新潟東港に輸送し、パイプラインで仙台まで送り、発電に使うプロジェクトが持ち上がった。130,000m3 LNG船5隻を建造する計画であった。

LNG売買契約、液化基地建設契約、諸契約が1978年6月に締結された。

しかし、1979年に革命が起こってホメイニ師が最高指導者に就任、革命政権は前国王の政策をすべて否定、本計画も否定された。

「不毛地帯」では、壹岐正はサルベスタン鉱区の入札を勝ち取るため、「大阪電力」を説得して、LNG導入の了承を取り付ける。

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最近ではAzadegan油田がある。

1999年に発見されたAzadegan油田はイラン最大級の油田で、カフジ石油を失った日本政府は2000年のハタミ大統領訪日時に両国間で交渉開始に合意し、2001年7月、平沼赳夫経済産業相がテヘランでハタミ大統領と会談し、開発の早期契約に向けて努力することで合意した。
当初の日本側メンバーは、国際石油開発、石油資源開発、トーメンの3社であった。

しかし、イランの核問題で米国政府の圧力を受け、日本政府は後ろ向きになり、トーメンも豊田通商に合併され、(小説「エネルギー」では、米国の自動車事業への影響を恐れるトヨタの奥田会長の命令で)撤退する。

2004年2月、国際石油開発インペックス)はイラン国営石油との間でAzadegan油田の評価・開発に係わる契約に調印した。

その後、イランの核問題は解決のきざしが見えず、開発に着手出来ない状況が続いた。
国際石油開発はイラン側が約束した油田の地雷除去を終えていないことが遅れの主因と主張したが、イラン側は地雷除去は96%終わっており、作業に問題はないと反論し、本年9月末までに開発を始めない場合、同社に与えた開発権を取り消し、イラン政府が引き取るとし、早期着工を促した。

2006年、開発権を持つ国際石油開発とイラン政府は、日本側の開発権の保有割合(出資比率)を大幅に引き下げることで大筋合意した。国際石油開発が保有する75%の開発権のうち65%分をイランの国営石油会社に譲渡し日本の開発権は10%とした。

2006/10/9 アザデガン油田の開発権引き下げでイランと合意 

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なお、伊藤忠はイランのMehr Petrochemical に出資、Assaluyeh地区Pars Special Economic Energy Zoneで高密度ポリエチレン(年産30万トン)の生産を行っている。

2009/6/30  イランのMehr Petrochemical 完成



目次、項目別目次
    
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/blog/zenpan-1.htmにあります。

  各記事の「その後」については、上記目次から入るバックナンバーに付記します。


 

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