新潟水俣病で和解勧告

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新潟県・阿賀野川流域で1960年代に発生した有機水銀による公害の新潟水俣病をめぐり、未認定患者ら125人が国と昭和電工に損害賠償を求めた第4次訴訟で、新潟地裁は7月8日、原告、被告の双方に和解を勧告した。
<p>HTML clipboard</p>野裁判長は「新潟水俣病の発生から45年。被害者の高齢化が進み、早期の全面解決が必要と考えている。解決に向け、真摯で積極的な努力を尽くすことを切望する」と原告と被告に求めた。

国は「原告が早期の和解を望んでいることを踏まえ、和解協議に入る」、昭和電工も「勧告の趣旨に異存はない」とした。
同日、1回目の和解協議が開かれた。患者側は早ければ10月中旬に和解条件の基本合意を目指したいとしている。

熊本の水俣病訴訟が本年3月に水俣病不知火患者会と、被告の国や熊本県、原因企業チッソが和解合意し、政府は4月に新潟水俣病を含む未認定患者「救済措置の方針」を閣議決定している。

新潟4次訴訟の原告はいずれも阿賀野患者会に所属し、2009年6月、1人880万円の賠償を求め提訴した。
患者会は和解に伴い、阿賀野川流域であらためて国が住民の健康調査をすることや、首相と昭和電工社長の謝罪を求めている。

新潟地裁ではほかに、未認定患者ら17人の3次訴訟が係争中で、原告は和解ではなく、判決を求めている。

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1965年5月に水俣病が熊本で公式確認されて9年後の1965年に阿賀野川流域で水俣病が発生した。

1965年1月に、原因不明の疾患の患者を東京大学脳研究所の椿忠雄助教授(当時)が診察、有機水銀中毒の疑いが持たれた。
同年4月から5月にかけて数名の患者が発見され、この事実が学会で報告された。

患者の居住地はいずれも阿賀野川下流の沿岸に限定されており、患者には典型的な水俣病の症状が現れていた。

水俣病が熊本で公式確認されて9年後であり、政府が水俣病が発生した時点で原因究明を行い、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしておれば、被害拡大は避けられた。

同年9月、厚生省に新潟水銀中毒事件特別研究班が組織され、原因究明に当たった。

研究班は、1967年4月、疫学的調査結果等を踏まえ、原因は阿賀野川の上流にある昭和電工鹿瀬工場(アセトアルデヒドを生産)の排水である旨の報告を提出した。また、新潟大学と県は工場の排水口の水苔からメチル水銀を検出するなど、工場の排水が原因であることを明らかにした。

1936   昭和合成化学工業鹿瀬工場、水銀等を触媒にしてアセトアルデヒドの生産を開始
1957   昭和電工、昭和合成化学を吸収合併し、鹿瀬工場のアセトアルデヒドを増強
1965/1  鹿瀬工場、アセトアルデヒド生産停止、プラント撤去
       (製造工程図を焼却したとされる)

昭和電工はこれに反論し、発生が公表された前年に新潟県内を襲った新潟地震によって流出した農薬が原因であるとの説を主張した。

新潟地震の際に、信濃川河口付近の農薬倉庫から流出した農薬が阿賀野川の河口まで達し、その後阿賀野川を逆流して下流域を汚染したとするもの。

1968年9月に政府は水俣病に関する政府統一見解を発表した。

厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。
この2つを政府統一見解とした。

昭和電工はその後も農薬説を主張したが、1971年の新潟水俣病第1次訴訟の判決で、原因は工場排水であることが確定した。

新潟県当局は被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたことを確認している。
また、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。

農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、より上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになった。

なお、昭電は新潟水俣病の発生が公表される頃には、アセトアルデヒドの製法変更で、工場での生産を止めていた。

現在この工場では、昭和電工の関連会社の新潟昭和がセメント製品を生産している。

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経緯は下記の通り。

1956/4 (水俣病公式確認)
1965/5 新潟水俣病公式確認
1967/6 一次訴訟(四大公害訴訟ー両水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病ー最初の訴訟)
1968/9 (共通)政府統一見解、「工場排水が原因」
1971/9 一次訴訟で患者側勝訴。昭和電工の工場排水が原因と確定
1982/6 二次訴訟
1995/12 (共通)政府が未認定患者救済策を閣議決定
1996/2 閣議決定を受け、二次訴訟和解
2007/4 三次訴訟
2009/6 四次訴訟
2009/7 (共通)水俣病救済法 成立
  2009/7/3 
水俣病救済法案、衆院を通過、来週成立の見通し
2010/3 (水俣訴訟、熊本地裁で和解)
  2010/3/20 
水俣病集団訴訟で和解案
2010/4 (共通)政府、水俣病特別措置法の「救済措置の方針」を閣議決定
  2010/4/16 
水俣病「救済措置の方針」を閣議決定 
2010/7 四次訴訟和解勧告、協議開始
 三次訴訟は(和解ではなく判決を求め)係争中

 (共通)は水俣病、新潟水俣病の両方

資料 新潟県 新潟水俣病のあらまし


目次、項目別目次
    
http://kaznak.web.infoseek.co.jp/blog/zenpan-1.htmにあります。

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