3月10日付の日本経済新聞の「200年企業 成長と持続の条件」は塩野香料を取り上げている。
その中に以下の記載がある。
「塩野香料は1943年秋に、バラから得られる香料を原料にポリスチレンを製造する技術を確立した。終戦まで毎月1トンを生産、軍用機のレーダー対策用に住友電気工業などに供給した。」
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塩野香料は和漢薬真珠などの薬種問屋としてスタートした。
和漢薬から丁子(クローブ)、肉桂(シナモン)など同じ原材料を使う香料事業に転換した。
三代目の弟は分家して洋薬に転換したが、それが後の塩野義製薬である。
塩野吉兵衛 1808年に道修町に薬種問屋・塩野吉兵衛商店を開業
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二代 吉兵衛
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三代 豊太郎---弟 義三郎(分家、洋薬に転換、塩野義三郎商店→塩野義製薬)
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四代 光太郎 和漢薬から香料に転換
1908 輸入品で香料事業参入
1917 香料製造開始
1921 エッセンスの合成に成功
1929 塩野香料設立
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ポリスチレンは1839年にドイツの薬剤師の Eduard Simon が発見した。天然レジンから分離したが、それが何かは分からなかった。
その後、ドイツの有機化学者のHermann StaudingerがSimon が発見した物質がスチレンの重合体でプラスチックポリマーであることを見つけ、1922年に発表した。1953年にノーベル化学賞を受賞している。
1930年にBASF(I.G. Farben)の科学者がポリスチレンの商業生産の方法を開発した。
1930年代にDowの最初の女性化学者のDr. Sylvia Stoesserを含む研究者がポリスチレンの製法を開発、Dowは1937年にPS(Styron)を発売した。
日本では1957年1月にモンサント化成が四日市で、同年2月に旭ダウが川崎で、ポリスチレンの製造を開始した。
両社のPS生産は、エチレンとSMの生産開始に先立ち、輸入SMを原料に行われた。
四日市では三菱油化が1959年5月にエチレン(22,000トン)、1959年5月にスチレンモノマー(22,000トン)の生産を開始した。
川崎では日本石油化学が1959年7月にエチレン(25,000トン)、旭ダウが1959年10月にスチレンモノマー(18,000トン)の生産を開始した。
モンサント化成は1952年に三菱化成とモンサントのJVとして設立され、三菱化成のPVC関連事業を承継した。
1953年に可塑剤の生産を開始、1957年に四日市でPS(7,200トン)の生産を開始した。
(1958年に三菱モンサント化成と改称)旭ダウは1953年に塩化ビニリデンポリマーの繊維への事業展開のため、旭化成とDow ChemicalのJVとして設立され、1957年に川崎でPS(10,200トン)の生産を開始した。
2006/10/7 日本のPS業界の変遷
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しかし、これより早く、1943年に塩野香料が日本で最初のポリスチレンの生産を開始していた。
担当したのは、のちに日東化成、大阪曹達の社長を歴任した勝村龍雄氏である。
同氏の著書「化学者のおとぎ話」(1990年 発売元:化学同人)では経緯は以下の通り。
同氏は当時、塩野香料で、香料原料の製造のため、塩化アルミを触媒としてベンゼンとエチレンオキサイドからバラの香りの主成分のβ-フェネチルアルコールを合成する研究を行っていた。
C6H6 + CH2CH2O → C6H5CH2CH2OH
β-phenylethylalcohol (C6H5CH2CH2OH)はTea Rose Elementとも言われ、「バラの香り」として香水に欠かせない原料で、ほとんどすべてのバラに含まれている。
太平洋戦争では米軍のレーダーが威力を発揮、これに対抗するには高周波の絶縁物であるポリスチレンが必要として、日本中の大学、研究所でポリスチレンの研究が行われた。
レーダーは目標物に電波を発射して跳ね返ったきた電波を微弱な高周波電流にして増幅・変調するので、効率よく回路に流すにはこの誘電損失の少ない絶縁材料が必要になる。
このため、軍の要請で、ポリエチレンやポリスチレンの研究が行われた。
同氏は恩師の阪大の小竹無二雄教授から、β-フェネチルアルコールの合成法を利用してスチレンの合成法を考えるよう指示され、β-フェネチルアルコールを脱水してスチレンを生産する研究を進めた。
C6H5CH2CH2OH ー H2O → C6H5CHCH2
研究の結果、β-フェネチルアルコールをピュアにしておけば、脱水して高純度のスチレンモノマーが得られることが分かり、それをブロック重合してポリスチレンにすることに成功した。
記事の「バラから得られる香料を原料に」というのは誤りで、正しくは「バラの花の主香気成分であるβ-フェネチルアルコールを原料に」であり、これはベンゼンとエチレンオキサイドから合成された。
他の多くの研究所はエチルベンゼンの脱水素法を研究したが、うまくいかなかったという。
1943年に海軍艦政本部にポリスチレン400kgを持ち込んだところ、代金と今後の助成金として、今(1989年の執筆時)の価値で20億円以上の金額の小切手が渡された。
急遽、同社の三国工場を全部ポリスチレン工場に切り替え、フル生産体制に入った。
終戦まで月産1トンの生産を続け、製品は海軍の命令で、住友電工と古河電工の2社に半分ずつ渡した。1944年からポリスチレンを軍のレーダー用に間に合わすことができるようになった。
ほかにも数か所で小規模な生産が行われた。
三井化学工業も1944年末から生産を行った。
しかし、敗戦まで軍の使用したポリスチレンの大部分は塩野香料製であった。
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各記事の「その後」については、上記目次から入るバックナンバーに付記します。
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