クラレは、中国へのビニロンプラント輸出50 周年記念式典を11 月15 日に北京で開催した。
ビニロンはポリビニルアルコール(ポバール)を原料とする合成繊維で、京都大学の桜田一郎教授らによって1939 年に開発された。
米国でDuPontのWallace Carothersが1935年にナイロンを開発し、評判になった直後で、「日本のナイロン誕生」と騒がれた。
当時は「合成1号」と名付けられた。
1943年に倉敷レイヨンの大原総一郎が岡山に日産200kgの重合、紡糸の一貫工場を建設した。
大原は戦後直ちに事業の遂行を決め、1948年に原料から紡糸までの一貫試験工場を建設した。
この時点で桜田教授から「ビニロン」の名称の提案があり、採用された。
1949年に商工省は「合成繊維工業の急速確立に関する件」の省議決定を行い、ポリビニールアルコール系繊維を倉レ、ポリアミド系繊維を東レ担当とした。
1950年にフィラメント日産5トン、ステープル5トンの商業生産プラントが完成した。
カーバイドを生産していた昭和電工・富山工場の一角でカーバイドアセチレンからPVAを生産、岡山工場に重合、紡糸工場を建設した。
建設に当たっては政府からの資金援助が「日本にとって贅沢品だ」として閣議によって否決され、資金調達に苦しんだ。
反対した大臣のなかに大屋晋三運輸大臣(9年間の参院議員の前後は帝人社長)がいる。
大原総一郎は「日本の繊維産業を復興するものだ」と一万田日銀総裁に直談判し、協力を得て、15銀行による14億円の協調融資が成立した。
2010年に「ビニロン」が国立科学博物館により「未来技術遺産」に選ばれた。
他方、東レは1951年にDuPontから当時の東レの資本金を3億円も上回る10億8千万円で特許を購入した。
DuPontが工業化しているのは66タイプだが、東レが事業化するのは6タイプで異なるため、特許権だけ買い、ノウハウは自社開発とした。(特許購入は、米国に製品を輸出する際に、物質特許による特許紛争が起こることを読んだもの)同社は1938年にナイロン特許が公告された直後から研究を開始し、1943年から試作を行っていた。
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1958 年に中国化学工業考察団が来日した際、民生用繊維増産の目的でビニロンプラント輸入の申し入れがあり、交渉がはじまった。
当時は日中間に国交が樹立されておらず、また台湾政府との関係もあって政治問題化した。
倉敷レイヨンは政府や政党幹部、中国在勤の西側外交筋へ積極的に働きかけた結果、1962 年11
月に締結された「日中総合貿易に関する覚書(LT協定:廖承志と高碕達之助の名前から)による日中貿易の目玉として輸出承認が得られ、中国へのプラント輸出の第一号として、1963
年6月にポバール・ビニロン一貫生産プラントを輸出する契約を締結した。
中国側の代金延べ払いが議論を呼んだが、関係各大臣の協議で、金利を原案の年4.5%から6%に引き上げることを条件に認められた。
これが、西側諸国からの対中国プラント輸出の第一号となった。
当時、大原総一郎はこう言っている。
私の念願することは、日産30トンのビニロンは、6億 5千万の人口に対しては、1年1人当たり僅かに0.017キロの繊維を供給するに過ぎないものであるが、繊維に不足を告げている中国人大衆にとって、いささかでも日々の生活の糧となり、戦争によって物心両面に荒廃と悲惨をもたらした過去の日本人のために、何ほどかの償いにでもなればということ以外にはない。
周恩来総理、陳毅副総理、郭沫若外交部長らが、訪中した大原総一郎社長と会見した。
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