信越化学の決算が発表された。増収増益である。(単位:億円)
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売上高 |
営業損益 |
経常損益 |
当期損益 |
04/3 |
832,804 |
125,625 |
125,612 |
74,805 |
05/3 |
967,486 |
151,734 |
151,503 |
93,160 |
06/3 |
1,127,915 |
185,320 |
185,040 |
115,045 |
増減 |
160,429 |
33,586 |
33,537 |
21,885 |
現在、同社の金川千尋社長は日本経済新聞の「私の履歴書」に連載中だが、同社の好業績は金川社長の指導力によるところが大きい。
売上高は1兆1,280億円、最終利益は1,150億円と、それぞれ1兆円、1000億円の大台に乗せた。11期連続の最高益更新。
同社は以下の製品群をもつが、いずれも好調である。
主力商品はPVC、シリコーン樹脂、半導体用シリコンウェハー、合成石英の4品目。
・有機・無機化学品:
塩化ビニル、シリコーン、セルロース誘導体
・電子材料:
半導体シリコン、電子産業用希土類磁石、
フォトレジスト製品・電子産業用有機材料
・機能材料その他:
合成石英製品、希土類磁石、レア・アース、
酸化物単結晶
その中でも塩ビは日米欧に拠点を持ち、世界一の地位を占めている。同社のPVC事業の歴史をまとめた。
同社の現在の能力は以下の通り。
信越グループの能力(千トン) |
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場所 |
PVC |
VCM |
注 |
現状 |
計画 |
現状 |
計画 |
日本 |
信越化学 |
鹿島 |
550 |
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鹿島塩ビ |
鹿島 |
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492 |
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計600 |
米国 |
Shintech |
Texas |
1,450 |
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Louisiana |
590 |
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(270) |
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廃棄 |
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600 |
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750 |
塩素 450 |
欧州 |
CIRES |
ポルトガル |
200 |
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信越PVC |
オランダ |
450 |
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620 |
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フィンランド |
( 90) |
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契約終了 |
合計 |
3,240 |
600 |
1,112 |
750 |
塩素 450 |
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国内
1955年に新日窒とのJVで日信化学工業を設立し武生でPVCを起業化(1965年に100%化)、1957年には自社で直江津で生産を開始した。
1967年に三菱油化が鹿島のエチレン30万トン計画推進に当たり、有力企業を集めて電解、VCM、PVCおよびアンモニアの起業化を検討、信越はこれに乗って鹿島進出を決めた。鹿島電解(ソーダ264千トン:23%出資)、鹿島塩ビモノマー(220千トン:50%出資)に参加するとともに、自社でPVC200千トンを建設、1970年に生産を開始した。(つなぎとして南陽にプラントを建設)
1972年に不況カルテルで日信化学プラントを停止、1973年には直江津のVCMプラント爆発でPVC生産を停止した。
南陽工場は産構法後に停止し、能力見合で新鋭設備を鹿島に建設し、同時に産構法での鹿島の休止設備を操業再開し、シェアを拡大した。
金川社長は後記の通りシンテックの100%子会社化を提案して以降、同社の経営に当たったが、1982年にシンテック社長に加え塩ビ事業本部長を兼務し、1990年8月、社長に就任、強烈な指導力で国内の塩ビ事業の拡大に貢献した。
以下はその例である。
1980年頃に鹿島では大きな問題があった。同社は鹿島電解で本来の枠に加え、旭硝子、旭電化の両社から両社の塩素枠の2分の1の塩素(優先塩素)を引き取っていた。(当初はメリットがあったから引き受けた筈)
1980年頃は輸入EDCの価格が低下したが、同社は優先塩素のために安い輸入EDCが使えないという問題である。これにエチレン価格問題があった。
同社では金川本部長のもとで、「(交渉決裂で原料が切れる場合に備え)米国からの原料およびPVCの直接輸入も必要とあらば直ちに実行できる準備をし、同時に万一訴訟等になった場合の対策についても万全の備えを行い十分に切り抜けられる体制をつくって」(同社社史)、交渉を行い、有利な新契約を締結した。
産構法時には他社が設備廃棄するなかで唯一、鹿島工場を休止し、産構法終了後の不足時に再稼動してシェアを伸ばした。
(業界では通産省の指導で産構法終了後も「重合槽のm3数」を増やさないとの約束をしていたが、同社は通産省に掛け合い、同社所属の共販会社の重合槽m3枠の増加を勝ち取った。
しかし、第一塩ビグループが第一塩ビ製造で増設したのに対し、重合槽のm3数維持を理由に強烈に反対したといわれている。)
三菱化学の合併に当たっても、(三菱化成が塩ビをやっているため)競争相手から原料エチレンを買うことになるとして、他社からの購入も考えて鹿島にエチレンタンクをつくるとし、最終的には有利な原料価格方式を勝ち取ったといわれている。
海外
CIRES(コンパニア・インダストリアル・デ・レジナス・シンテティカス):
同社の海外進出の第1号は1960年設立のJV、ポルトガルのCIRESである。
当時ポルトガルでは合成樹脂について国内に原料のあるPVC計画のみが検討されおり、その認可を受けた同国最大の電力会社ウニオン・エレクトリカ・ポルトゲーザ(UEP:傘下にカーバイド製造会社を持つ)が提携先を探していた。
三井物産のアレンジで信越の参加が決まり、1960年にCIRESが設立された。
三井物産と信越化学がそれぞれ25%出資、現地側はUEP12.5%、市中銀行2行で35%、機械商社2.5%の出資比率であった。
1963年に年産3,600トンでスタートした。
その後長期間、三井と信越は26%ずつの出資を続けたが、1992年にNorsk Hydroが26%の出資を行った。
ポリカサ(ポリメロス・セントロアメリカノス)
1967年にニカラグアでポリカサを設立した。
信越化学33.75%、三井物産11.25%に現地(ソモサ系)が55%出資で設立され、中米共同市場を対象にPVC年産5千トン、同コンパウンド6千トンを生産するもので、1970年にスタートした。
79年にサンディニスタ民族解放戦線による革命が勃発し、ソモサ大統領は亡命し、後に暗殺された。信越化学の全社員が引き揚げた。革金政権は操業再開を何度も求めてきたが、社員の安全を第一に考えて断った。(修正)
金川社長はこれを最大の失敗としている。
「中米のニカラグアで60年代の終わりから10年間で地元企業との合弁会社を、中米一の企業に育てた。ところが79年の終わり頃、革命が起きたのです。大統領がいなくなって国が滅茶苦茶になった。事業はうまくいっていたが、通貨がスーパーインフレになってしまい、国が滅茶苦茶になった。事業はパーです。それまでに現金収入で上げた利益を送っていたから、投資として帳尻は合ったが、事業は消えてなくなったわけです。」(2005/6/12 TV朝日「トップに迫る」)
シンテック
金川海外事業本部長はポリカサヘの原料モノマー交渉を通じてダウ・ケミカルとの交流を深め、同社関係者から新技術による信越自身の米国でのPVC企業化を勧められていた。
1972年に、航空機部品の銅管から出発して塩ビパイプ部門に進出し米国最大の塩ビ管メーカーに急成長したロビンテックが信越に対し共同事業を申し入れた。
交渉の結果、1973年にPVC製造の合弁会社シンテック設立に関する契約が調印された。
信越とロビンテックの折半出資で、工場は当初年産10万トンとし、米国テキサス州フリーポートのダウ・ケミカルのコンビナートに隣接して建設する。信越は新技術を新会社に供与、プラント設計から建設、試運転、操業までの一切の指導に当たる。新会社の経営は両社が対等の立場で行う。原料はダウ・ケミカルから購入する、という内容である。
工場は1974年10月に完成した。
1976年初め、ロビンテックは資金繰りに困り、保有するシンテックの株式を譲渡したいと信越に申し入れた。信越とロビンテックの経営方針は大きく異なり、時を追ってこれが拡大していた。
信越の業績は石油危機後の最悪期を迎えており、共同経営の解消、株式買い取りについては社内外にも異論があったが、同社は金川海外事業本部長提案のあったシンテック株式の100%買い取りを承認、1976/7に調印した。1年後、金川常務がシンテック社長に就任した。
(ロビンテックは一時立ち直るが、80年代後半、再び苦境に陥り、米連邦破産法第11条を申請したが、再建できず、破産に追い込まれた。)
シンテックの特徴はダウとの提携であった。ダウは電解~VCM事業、シンテックはPVC事業に専従して共存共栄体制をとり、VCM価格の決定にはPVC価格を反映させている。PVC価格が暴落した場合は値下がり損の半分をVCM価格引下げでダウが負担、逆にPVC価格が上がれば値上がり分の半分がVCM価格に反映されるというものである。
*ダウは2004年に、テキサス工場のEDCプラント1系列を2005年末までに停止し、VCMの生産も縮小すると発表した。エネルギー・原料価格の高騰に伴い、採算が合わなくなったためと説明している。
シンテックの業績は好調であり、上記の運営方式ではダウにもメリットがいく筈であり、後記のシンテックによる原料遡及計画などを含め、シンテックとダウの関係が変わりつつあるのかも分からない。
テキサス工場は1976年以降、設備増強を重ねて、1990年末に90万トンとなって全米最大の塩化ビニル企業へ成長した。
その後も増強を続け、現在の能力は145万トンとなっている。
なお、信越はテキサスに塩化ビニル樹脂コンパウンドの製造・販売子会社 K-Bin Inc.をもっている。
ルイジアナ第2工場
1996年、信越はシンテックを通じてルイジアナ州コンベントに15平方キロの工場用地を取得した。
7億ドルを投じて電解、VCM(50万トン)、PVC(50万トン)の一貫生産体制をつくる構想で、1998年スタートを予定した。
しかし、この計画は難航した。
環境保護団体グリーンピースが「ダイオキシンが発生する塩ビ工場を、黒人住民の多い地域に建設するのは人種差別」と攻撃した。
これに対し信越では、「地域住民を対象にした世論調査では6割以上の人が工場建設に賛成してくれている」と反論した。
1998年になり信越では立地をAddisに変更し、一貫生産を棚上げしてPVC 59万トンのみの生産とした。ここにはダウ・ケミカルの工場があり、原料供給を受けるかたちとなる。
2000年12月、新工場の生産能力59万トンの半分である第一段階の30万トンが完成し、生産を開始した。 残りは2001年末に完成している。
ボーデンのプラント買収
Borden Chemicals and Plastics は1987年にBordenから分離独立した塩ビ会社であるが、2001年4月に米連邦破産法第11条(会社更正法)の申請を行い、2003年に最終的に清算された。
同社はルイジアナ州AddisとGeismer、イリノイ州Illiopolis に3つのプラントをもっていた。
Addis工場は1979年に信越化学の技術を導入し建設された工場で、シンテックの工場から約2km離れた場所に位置する。信越はこれを買収した。能力は27万トン。
プラントは設備に問題があり、廃棄した。「1回でも事故を起こせば致命的な打撃を受ける。今回の買収では、商権を手に入れただけで投資の成果は十分に上がった。」(私の履歴書)
なお、残りのGeismer工場はWestlakeが、Illiopolis工場はFormosaが買収した。
ルイジアナ新計画
2004年12月、信越化学は新計画を発表した。
総額10億ドルをかけて塩素 45万トン、VCM 75万トン、PVC 60万トンの一貫生産を行うというもので、第一段階として、塩素 30万トン、VCM 50万トン、PVC 30万トンを2006年末に完成させ、残りを2007年末に完成させる。
信越は発表していないが、ルイジアナ州地元紙はルイジアナ州プラクミンの南の元アッシュランドケミカルの工場敷地に建設することを決めたと伝えている。
各プラントの立地は以下の通り。
ミシシッピ川流域ではDowがPlaquemine、HahnvilleとNorco(両方合わせてSt.Charles工場)、
ExxonMobilがBaton Rouge、ShellがNorco にエチレン工場をもっている。
シンテックの最近の業績は以下の通り。
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2003/12月期 |
2004/12月期 |
2005/12月期 |
◇売上高 |
1,671億円 |
1,971億円 |
2,330億円 |
◇経常利益 |
238億円 |
271億円 |
373億円 |
◇当期純利益 |
155億円 |
179億円 |
248億円 |
信越PVC(欧州)
1999年、信越化学はシェル・ケミカルスとアクゾ・ノーベルの塩化ビニル合弁事業を買収した。
買収したのはシェルとアクゾの合弁会社でオランダに本社を置くロビン社で、オランダのBotlekにVCM 550千トン、同じくPernisにPVC 295千トンを持ち、更にフィンランドでNesteに 90千トンの製造委託を行っている。
その後の増設でVCMは620千トン、PVCはPernisを450千トンに増強し、合計PVC能力を540千トンにした。
ーーー
以上により現在の同社のPVCの全世界能力は360万トンで、新計画が完成すると420万トンとなる。
金川社長は中国進出については、こう述べている。(2005/6/12TV朝日「トップに迫る」)
「中国はね、市場としてはこれからの10年、圧倒的に伸びるでしょうね。非常に魅力的な市場です。我々は製品の輸出には中国に大変お世話になっていて、たくさん輸出しています。ただし、投資とは別のことなのです。中国の場合はカントリーリスクというと語弊があるかもしれないが、例えば我々の商品の基礎中の基礎の原料である石油とか電力を、政府が一番コントロールしている。我々が下流、ダウンストリームでいくら努力して、事業を成功させても、上流で押さえられたらそれで一発で終わり。つまり、我々の経営努力ではできないものがあるところではやってはいけない、というのが私の考え方。経営努力で克服できるものは経営努力で克服するが、できないものはやらない。株主にも言うと、多くの、特に長期の投資家は私の意見を理解してくれる。目先、とにかく儲けろと言う人はあまり理解してくれないと思うが。」
資料:信越化学社史
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